大内宿について

 
江戸時代の町並みが残る大内宿。
この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために
景観の保存と伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。
 
 
江戸時代、宿場町として栄えた大内宿
  江戸時代、会津藩主の保科正之によって会津城下と下野(しもつけ)の国(現在の日光市今市)を結ぶ32里(約130km)に及ぶ会津西街道が整備されました。
その宿場町のひとつとして栄えたのが大内宿。若松城(鶴ヶ城)から5里(約20km)の距離にある大内宿には、本陣(大名や旗本、幕府の役人などが使用した宿舎)や脇本陣(本陣の予備)が設けられ、会津藩をはじめ新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸廻米の運搬路として重要な役割を果たしていました。
     
半宿半農から観光地 大内宿へ
1680年、幕府は五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)以外の街道(脇住環)の通行に対する取り締まりを行い、大内宿を通る会津藩の参勤交代がなくなってしまいました。
その後しばらくは宿駅・農村としての「半農半宿」の時代が続きましたが、1884年日光街道が開通し、やがて完全に宿駅としての役割を終えました。旧街道沿いの近代化が進む中、大内宿は高い山々に囲まれた山間の集落であるため、賑わいを見せた江戸時代そのままの茅葺き屋根が連なる宿場町の面影を今に残すこととなりました。
一時は、近代化を望む住人と旧宿場町の保存を訴える研究者達で二分しましたが、1981年に国の「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定され町並み保存活動が始まり、現在40件以上にも及ぶ茅葺き屋根の民家では食事処や土産物屋、民宿などに様変わりし、年間約80万人もの観光客を迎え入れる観光地となりました。
   
茅葺き屋根について
約400年の歳月を経ても残る伝統的な茅葺き屋根は、専門技術を持つ茅手(かやて)と呼ばれる職人を中心に、ほとんどの村の人々が協力し合い屋根の葺き替えに取り組んでいます。

茅葺き屋根の材料はススキ。
夏は涼しく冬は暖かい茅葺き屋根ですが、火災には弱く一度燃えるとすぐに広まってしまいます。
そこで大内宿では、9月1日に毎年一斉放水を行っています。
1年に1度、各民家から高く水が飛び交う様子を多くの方が見物に訪れます。

この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観の保存にと伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。